明日をつくるつながり|淡路島
ハタラボ島協同組合 やまぐちくにこさん

FEATURE | 明日をつくるつながり | 淡路島

ハタラボ島協同組合
やまぐちくにこさん


求めるのではなく、生み出すことから始まった幸せへの第一歩

 逃げても、避けても、目の前に現れる。そのような壁が、誰しもの人生にひとつぐらいは出てくるのかもしれません。「NPO法人 淡路島アートセンター」の設立メンバーで、常任理事を務めているやまぐちくにこさんも、その一人。
 若かりし時には、淡路島から離れたいとずっと考えていました。

「洲本の街なかで生まれ育ちました。地方だからでしょうか、近所の人たちにいつどこで誰と何をどうしたということがすべて筒抜けで、あまりにものプライベートのなさに嫌気がさしてしまったのです」

 近所付き合いが希薄な都会の暮らしが問題視される中、やまぐちさんは真逆の悩みを抱えていました。なにもかもすべてにまで干渉してほしくない。
 絵が得意だったやまぐちさんは、進学を機に関西の美大へ進学。島からやっと脱出できたと、胸を撫で下ろしていたそうです。

 しかし、学校を卒業して大阪のメーカーに就職したやまぐちさんを待っていたのは、寝るだけの家と仕事場を往復する日々。乾いた暮らしの中で出会ったのが、将来の夫になる淡路島出身の男性でした。

「同郷ならではの、ほっこり感につい、ほだされてしまって。でも、結婚することになり、あれほどイヤがっていた島に一緒に帰ることになってしまいました」

絵やアートは役割。その信念に沿って歩んできた、やまぐちさん。

 帰ってきた初日こそ、「せっかく出たのに帰ってきてしまった」と落ち込んだやまぐちさん。でも、その翌日には絵画教室の先生にならないかと誘われ、働くことを決意します。
 暮らしていくためには働かなければならないという事実よりも、何の抵抗も深い考えもなく、「今できることはアートの楽しさを身近な子どもたちと一緒に共感することだな」と考えたそうです。

「島で育った子どもたちが大人になったときに、淡路島で経験したことが自慢や自信のひとつにでもなれば素敵だなと思って」

 ならば、そういう情景をつくろう。後の活動につながる第一歩を自らの足で踏み出しました。

地域の人たちから心をゆるしてもらうために必要だったNPOという法人格

 子どもの頃から好きだったアートの作家活動を淡路島で始めたやまぐちさんでしたが、ひとつ気になっていたことがありました。絵を展示するための場所がないのです。
 白い壁でピクチャーレールがあり、スポットライトがあてられる、いわゆる一般的なギャラリーは存在せず、作品展示はたいてい会議室にパネルを設置する特設会場で、ライトは蛍光灯。窓からは自然光が入る。そんな場所しかありませんでした。

 目に付いたのは洲本市の市長選挙。「文化施設は市のブランディングにおいて必要な要素になります」と、当時の市長候補者に何度もお願いに行ったのでした。
 めでたくその候補者が市長になったのですが、事態は急変します。市長から「アートが必要なのは理解できるが、私には分からない分野だから、あなたがやってください」と頼まれ、やまぐちさん自身が市のギャラリーを立ち上げることになったのです。それからは市の嘱託職員として市民ギャラリーを企画・運営しつつ、絵画教室の先生も続け、二足のわらじで淡路島のアート活動啓蒙に励みました。

 多忙を極めつつも、市民ギャラリーを拠点に仲間が増え始め、充実した日々を送っていた2004年10月のこと。全国各地に大きな被害をもたらした台風23号が淡路島にも上陸し、その影響がやまぐちさんにも降りかかります。突然、「あなたの曽祖父の家が台風で崩れており、何とかしてほしい」という電話がかかってきたのです。
 その時に初めて曾祖父の家の存在を知ったやまぐちさん。いきなり、相続なのか撤去なのかという問題に直面してしまいます。出した結論は、「ここで楽しく活動をしたい。取り壊すにしても片付けるにしても」。その手段としてアートの力に頼ることにしました。
 この空き家改修作業が富田さんへの初依頼となり、「日の出亭」として生まれ変わったのです。

赤い壁を作ったのはシマトワークスの富田さん。制作当初はお風呂場の壁だった。

 ただ、そこは生まれ育った洲本から10kmほど北に離れた場所。地区が異なるため、ヨソモノの自分たちを受け入れてもらえるか、やまぐちさんは心配になりました。

「少しでも信頼を得られたらと、淡路島アートセンターというNPOをつくりました。公的な団体にすることで、周囲の人の安心と信頼を得られるのではと思いました」

 2005年までは、自らの手の届く範囲で一生懸命に動き続けたやまぐちさんでしたが、NPOの設立を機に、どんどん関わる人が増え、活動が大きくなっていきました。

私の役目は0から1をつくること。モノ・コトをカタチにしてくれる仲間の存在

 毎年のように淡路島アートフェスティバルを開催していたやまぐちさん。着々とアートに関わる仲間を増やしていき、島を楽しく魅力的なものへと少しずつ変えていました。

 その動きをさらに加速させたのが、2009年にその年の3月まで学校として使っていた廃校にアーティストを招致したこと。日独合作映画の制作のために、日本での拠点を探していたドイツ人のヴェルナーペンツェルさんと、茂木綾子さんが、その人です。夫婦ともに映画監督で、スイスからやってくるとのことでした。

 話を聞いたやまぐちさんは、「ぜひ淡路島に」と手を挙げました。

「いま思えば、世界で活躍するアーティストが来てくれたことで、私自身の活動を肯定できました。普段見過ごされてきた「島の価値」にも気付かせてもらえる存在は、まるで方位磁石のように未来に向かって進むべき方向を示してくれました」

 

 旧・生穂第二小学校を拠点に映画づくりを始めた茂木夫妻は、さまざまな縁をつないでくれたそうです。中でも、地域プロデューサーの江副直樹さんとの出会いは、やまぐちさんの人生を変えるものでした。
 地域の魅力を深堀りしていく会話の中で生まれたのが、「淡路はたらくカタチ研究島」の青写真だったからです。

「正直に話すと、勘と熱意だけで動いていました。絶対にやり遂げるんだという気持ちは、誰にも負けないものでしたが、富田君には会社を辞めて来てほしいとお願いするなど、たくさんの人の運命を変えてしまいました」

 やまぐちさんを支えているのは、「適切な時に適切な人や言葉が存在する」という信念。得意な能力を持ち寄ってカタチをつくっていくという工程の中で、誰がどこにぴったりと当てはまるのか。
「それぞれの役割と人物が一致していたから、ここまで歩んでこられました。私は言い始めた人間として、役職になってしまうことが多いですが、ただ0から1にする役目を担っているだけなんです」

「仲間がいるからカタチにもなるし、動き始める」と話すやまぐちさんの姿に、支え合って互いに成長してきた温かい人たちの存在を感じることができました。

簡易宿泊施設に用途を変更するため改装工事中の「日の出亭」。

若い建築家によって、古いものと新しいものが融合していく空間に。

表現者の行動は「働く」ではなく「役目」。モノ・コトが自然発生し、育つ秘訣

 アート活動や島のプロジェクトと並行して、やまぐちさんが行ってきたことがあります。それは、移住をしたい人、した人へのおせっかい。せっかく淡路島に住もうと思って視察に来てくれる人に、何も持たせずに帰すことはできないと日々、奮闘しています。
 あれだけ淡路島から逃げたかったやまぐちさんですが、いまでは人を「呼び寄せる側」として、島に新しい縁を根付かせようと奮闘しています。

「淡路島を耕す女と名乗っています。ちゃんと根っこを張っているからこそ、島の出身者としてできること。目に見える作品は作っていませんが、私にとって人と関わることは、表現でありアートそのものです。幸せな人が増えるといいなという根底は同じですから」

 地方に活力を、という話になると必ず出てくるアートという存在。こうしている現在も、人種や国籍、世代、性別など、あらゆることを乗り越えて、各地でアーティストがつくった作品の数々が人の心を惹きつけています。
 淡路島の場合は、作り手のやまぐちさん自身が作品のひとつなのかもしれません。

 かつては想像もできなかった規模で活動を続けるやまぐちさんですが、いま、チャレンジしていることがあるそうです。それは、「手綱を手放す」ということ。過去に窮屈だと思っていた環境は、実は自らがつくり出してきたのかもしれない。であれば、もっとそれぞれのアイデアに寄り添おうと考えるようになったそうです。

「活動規模が大きくなっていくと、ついつい管理することを考え始めてしまいます。でも、私たちが歩んできた道を振り返ると、関わるみんなで支え合いながら自由に活動してきました。制限がなかったからこそ、想定外のものをつくってこられた。今こそ原点回帰が大切と感じています」

 いきいきと活動している人たちからは幸福感があふれ、一生懸命な人ほど評価をされる。だから、がんばれた。経験してきた素晴らしいやりがいを、そっくりそのまま未来へ運びたい。

「ただ役目を果たしているだけ」と笑顔で話すやまぐちさんの中には、淡路島と仲間への大きな愛が存在していました。

これからも「淡路島を耕す女」という役目をまっとうしますと話す、やまぐちさん。


■ やまぐちくにこ

1969年、淡路島生まれ。高校卒業後、約4年間島外で暮らしたのちUターン。「『淡路島が嫌い』でも、島に暮らさねばならないならば、新しいことにチャレンジできる土壌を島の中につくりたい」という理念の元、「淡路島を耕す女」と称し機能的な立ち位置を模索。現在、ファンクションキーを意味する「Fkeys+(エフキー)」という屋号を立ち上げ、行政事業のブランディングや他地域の文化政策などにも携わりながら、島との関わりかたを探求している。

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